夕日をみつめて
大きな太陽が、すっかり西にかたむき、古城公園の木々も、まっかにそまって、美しい夕やけのふうけいにつつまれました。おだけやぶの広場で遊んでいた子どもたちの遊び声は、しだいに小さくなり、どこからともなく、元気な歌声が聞こえてきました。
ぎんぎんぎらぎら 夕日がしずむ
ぎんぎんぎらぎら 日がしずむ
まっかっかっか 空のくも
みんなのお顔も まっかっか
ぎんぎんぎらぎら 日がしずむ
子どもたちの歌声にあわせて、この歌を口ずさむ一人のおじいさんがいました。おじいさんは、足が悪いらしく、片足を引きずりながら、夕日の見える小高い丘へとゆっくりのぼっていきました。そして、しずみかける夕日をじっと見つめてつぶやきました。
ああ、きれいだ。自然はなんと美しいことか。ここから見た夕日の美しさがわすれられず、いつか曲にしたいと思いつづけて勉強し、やっとできたのは、もう何年も前のことだったなあ。それもこれも、この足のおかげだ。
わたしが、二才のときだった。世話をしてくれていた子守りさんにおぶわれて、花火を見に行ったときのことだ。人がおおぜいいて、身動きもとれないほどだったらしい。そんな中で、二才のわたしが、おしっこがしたいと言いだしたそうだ。子守りさんは、さぞ、こまったことだろう。わたしをおんぶしたまま、片足をひっぱって、おしっこさせたそうだ。わたしは、いたさで、火が付いたようになきさけんだが、花火の美しさに見とれてなきやみ、そのうち、ねてしまったそうだ。しかし、そのとき足は、だっきゅうしてしまったらしい。子守りさんは、一言も言わないので、両親は、わけがわからず、手おくれになってしまったそうだ。
小さいときは、元気に外で走りまわって遊べる友だちがうらやましくて、しかたがなかった。なかまに入っていっしょに自由に走りまわりたいと何度思ったことだろう。
しかし、わたしは、子守りさんを、けっしてうらんではいない。なぜなら、足がこうだからこそ、わたしは、小さいときから一人しずかにハーモニカをふいたり、オルガンをひいたりして、音楽が好きになれたのだから――。ここ、古城公園にも、よく一人でさんぽに来て、風や木々のゆれる音を聞いたり、草花や虫を見て自分で曲を作っては、楽しんだものだ。わたしを音楽の道に進ませてくれたのは、この足のおかげと言ってもいいのだからな。
それにしても、わたしが、音楽の勉強をしたいから東京へ行かせてほしいとたのんだときは、父も母も、大反対だった。それもそのはず、そのころは、音楽は遊びとしてしか見られていなかったし、家は、大きなお店だったから、当然、家の仕事を手伝うものと思われていたからな。
反対をおしきって、東京へ出たわたしは、そこで、はじめてピアノにさわった。もう、ほかの人たちは、ピアノがうまかったから、わたしは、人の何十倍も練習しなければならなかった。指の先から血がにじむこともあった。昼も夜も練習するので、音がうるさいと言われ、何べんも引っ越ししなければならなかった。でも、東京で、音楽の勉強をいっしょうけんめいして、音楽大学を卒業した。それから、音楽学校も建てた。曲もたくさん作った。それなのに、学校もがくふも、戦争でみんなやけてしまったときは、がっかりしたものだ。
でも、そのおかげで、今度は、生まれ育った高岡にもどってきて、音楽の先生をしたり、合唱団を教えたりして、みんなに音楽を広めることができた。それに、三十八もの校歌や、高岡市民の歌や古城マーチなどを作ったりして、みんなに喜んでもらえたのだ。そして、わたしの作った「夕日」の曲を、今も、こうして、子どもたちが歌ってくれる。なんと幸せなことか。
おじいさんは、ひとりごとを言うと、まんぞくそうに、ほほえみました。太陽は、もう少しで、二上山のふもとにすがたを、かくそうとしています。遠くで、「夕日」のメロディーが、なりだしました。おじいさんは、つえをつきながら、丘を下りはじめました。
そうです。このおじいさんこそ、「夕日」の作曲者、平米小学校校歌の作曲者、室崎琴月さんです。琴月さんは、八十六才でなくなるまで、二千曲もの曲を作りつづけました。
琴月さんが、夕日を見つめて立っていた丘には、今、夕日の曲碑が建てられています。また、末広坂下小公園には、「夕日の像」が建てられています。毎年、七夕近くになると、その子どもたちの像に、かわいいゆかたが着せられるのを知っていますか。